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特集・コラム 2018年6月27日(水)19:00

【明田川進の「音物語」】第7回 虫プロと手塚治虫先生の思い出

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第2回でもお話ししましたが、僕が虫プロ(※虫プロダクション)に入社したのは「鉄腕アトム」の放送がはじまった1963年でした。当時、僕は経済学部の大学4年生で、参考書代わりに日本経済新聞をとっていまして、たしかその夕刊の一面に、「手塚治虫が虫プロをつくった」という記事が出ていたんです。その記事を読んで、手塚先生がアニメーションの会社をつくったことをはじめて知りました。

それまでの僕は、どちらかというと手塚漫画ばかり読んでいる漫画少年で、アニメーションはディズニーのものを劇場で見て素晴らしいと思っていたぐらいでした。テレビがまだそれほど発達していなくて、テレビアニメ自体がなかった頃の話です。そんなとき、「虫プロは、日本のディズニーを目指している」みたいなことが書いてある記事を読み、ちょうど就職活動をしていた時期でしたので、虫プロも就職先としてありかなとスタジオを訪ねていきました。当時の虫プロは、手塚先生の自宅と同じ場所にあって、敷地の庭の奥にスタジオの建物があったんですよ。そのことを知らない僕はスタジオの入り口が分からず、うろうろしていたら手塚先生の表札をみかけて、直に自宅まで行ってしまいました。そうしたら、たまたま手塚先生がいらしたので用件をお話ししたら、「今、制作部長に連絡をとるから会いなさい」と言ってくださったんです。

当時の制作部長は川畑(栄一)さんという方で、現場は東映でアニメーションをやられていた坂本雄作さんが見ていました。川畑さんに会社のことをいろいろ聞いたら、週ペースで「アトム」をつくらなければいけないから、すぐにでもきてくれる人を探しているとのこと。僕はまだ在学中でしたから、すぐには難しいなと思いつつ、その日は1時間ぐらい話して終わったんです。その後、夏休みに、親戚が日光の中禅寺湖で営んでいる貸しボートのアルバイトをやっていたら、「虫プロから入社試験の誘いがきている」との電報がお袋からきたので、急いで帰って試験をうけました。

面接では、川畑さんのあと、常務の穴見(薫)さんともお話したと思います。穴見さんは、代理店からきて、虫プロをどんどん押し上げていった方です。そのときも即戦力になる人がほしいから、すぐにでも働いてほしいという話になって、どうしても必要な単位とゼミの卒業論文のときには休ませてもらう条件で、大学4年の8月頃から制作進行として虫プロで働くことになりました。すぐに、月の半分は虫プロに泊まる生活になるんですけれど(笑)。

僕のいちばんの同期は、森(柾。もり・まさき)ちゃんです。彼は真崎守(※初期は「真崎・守」)というペンネームの漫画家で、貸本漫画家としてデビューしたあと虫プロに入社し、一緒に制作進行をやっていました。「ジャングル大帝」では制作担当として自分なりに予算組みをし、制作班を複数つくるシステムを虫プロ社内で立ちあげるなどした、頑張りやでした。僕は「ジャングル大帝」では設定制作をしていて、後半のレオが大人になったシリーズから音の作業もやらせてもらえるようになりました。その他、虫プロでは、僕より半年ぐらい前に入った日芸出身の田代(敦巳)氏、演出のりんたろうさんや杉井ギサブローさん、のちにマッドハウスをつくる丸山(正雄)さん、撮影監督のバンさん(※八巻磐氏)、のちにサンライズ設立メンバーとなる岸本(吉功)さんがわりと同年代で、よく仕事でからんでいました。

虫プロは、僕が入った頃、90人から200人ぐらいへと一気に社員の数が増えていきました。入社してしばらくしてから体制も組まれ、制作進行は演出家につく演助コースと、制作コースの2つに班分けされていったように記憶しています。今のアニメ制作に外部会社の協力は欠かせませんが、当時、外注という考え方はなかったんですよ。みんな、虫プロの社員でしたからね。いちばん多いときで500人ぐらいいたでしょうか。当時のスタジオは、西武線沿線の富士見台にあって、毎夜、煌々(こうこう)と灯りがついていたので、「富士見台の不夜城」と言われていました。で、仕事が終わると「じゃあ飲みにいくか」と駅前の居酒屋に行って、仕事が終わっても、みんなでワイワイやっていました。これは外注の人間の集まりではなく、みんな社員でやっているからできたことだと思います。今は作品の打ち上げでもないと、なかなかスタッフが集まる機会がないですし、フリーの人たちは出来高で数をこなさいといけないという事情もありますから。虫プロでも外部の人が多くなってきてからは、以前のように飲み会をやることは少なくなっていきました。

僕は制作の仕事をほんの少ししかかじっていないので偉そうなことは言えませんが、当時の虫プロでは今のように線撮りのアフレコなどありえなくて、先輩からも「やったらダメだよ」と強く言われていました。どうしても間に合わないときには、「すみません。5カットだけ線撮りになってしまいました」なんて言っていた時代です。ちょっと話はそれますが、ベテランの役者さんのなかでは、今のように線撮りで画面にセリフのタイミングが字としてでていたほうが、そこで自分がセリフを言えばいいから「分かりやすい」との声があがることがあります。色のついた映像でアフレコをして、ロングのカットになると、口の動きが見えにくくて、かえってしゃべりにくいなんてこともあって。そんな風に慣れていくのは怖いことですが、今の制作状況を考えると仕方ない部分も大きいようにも思います。

僕らが夜中に仕事をしているときに、ひょっこり手塚先生がやってくることもありました。撮出しといって、あがってきたセル画と背景をあわせて撮影にだすための準備をしているときに、手塚さんから、「この背景とあわせて撮影できるように段取りをとってくれませんか」と、予定していた背景と全然違うものをもってこられることもあって進行としては困りました(笑)。手塚先生が自らきて言うのですから、やらざるを得なかったですけれど。

社員が少なかった頃の虫プロは家族的な雰囲気がありました。僕らが徹夜をしていて朝方になると、手塚家の方が何人いるか聞きにこられて、朝食にトーストをもってきてくれるんですよ。また、当時はコピー機がなく、ガリ(※ガリ版、謄写版)を切って複製していましたから、キャラクター表やアフレコ台本をガリでつくるのは制作の大事な仕事でした。だんだんとコピー機が入ってきましたが、それも最初は建築の設計図などをコピーするための機械だったので、すぐに青くなったり、色がくすんできたりする。現像液の配合がどうのこうのといっていた時代の話です。そうしたコピー機の管理は全部、カメラマンをしていた手塚先生のお父さん(※手塚粲氏)がされていて、コピー機を使うときには母屋にいって許可をもらっていました。お父さんは、カメラをもってしょっちゅうスタジオにやってきて、パチパチ撮られていましたね。スタジオの写真素材なんかもお父さんが撮られていて、マスコミの人たちに渡していた時期が最初の頃はありました。

明田川 進

明田川進の「音物語」

[筆者紹介]
明田川 進(アケタガワ ススム)
マジックカプセル代表取締役社長、日本音声製作者連盟理事。日本のアニメ黎明期から音の現場に携わり続け、音響監督を手がけた作品は「リボンの騎士」「AKIRA」「銀河英雄伝説」「カスミン」など多数。

作品情報

鉄腕アトム(1963)

鉄腕アトム(1963) Check-in0

21世紀の未来世界で、十万馬力等7つの威力を持つロボット少年アトムが大活躍する物語。日本初の国産テレビアニメシリーズとして記念すべき作品。

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