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特集・コラム 2024年9月16日(月)19:00

【編集Gのサブカル本棚】第41回 プロライター廣田恵介さんのこと

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ライターの廣田恵介氏が昨年2023年6月に56歳で亡くなってから1年が過ぎた。アニメやホビーの分野で健筆をふるい、現在全国で巡回中の「日本の巨大ロボット群像」展ではメインキュレーターを務めるなど活動の幅を広げるなかでの突然の訃報だった。筆者は廣田氏とイベントや飲みの場などで数回会った程度で、編集とライターとしての仕事はほぼしていない。廣田氏が亡くなる1年ほど前、「雨を告げる漂流団地」という劇場アニメの試写会でばったり出会い、少し遠回りしながら帰りの電車で話したのが最後の会話になった。

「マイマイ新子」を応援

廣田氏の没後、2つの追悼イベントが催された。ひとつは、昨年10月に東京のミニシアター・ラピュタ阿佐ヶ谷にて7日連続で行われた劇場アニメ「マイマイ新子と千年の魔法」のレイトショー上映だ。「2010年の上映継続に貢献された廣田恵介さんを追悼して」と銘打たれ、監督の片渕須直氏が毎夜舞台挨拶に立ち、初日に足を運んだときは満席だった。映画館の入り口には、廣田氏が携わった「マイマイ新子」関連の出版物などを並べたコーナーも用意され、傍に立った片渕監督が観客や関係者たちとイベント終了後も長く交流をもっていた。
 「マイマイ新子」は公開時の09年11月、初週週末の観客動員が大変な不入りとなり、このままでは劇場上映は早々に打ち切られ、映像ソフトも発売できないだろうという厳しい状況にさらされた。そのさい、作品を高く評価して深く入れこんでいた廣田氏がいち早く上映延長・拡大の署名活動を行い、他の劇場で上映が終わったあともラピュタ阿佐ヶ谷でレイトショー上映が何度も行われ、小規模ながらも話題となって映像ソフトの発売にまでこぎつけた。
 いちライターがキーマンのひとりとなり、ネットの世界だけでなくリアルな場で身銭をきって動くことで作品を盛りあげる。なかなかできないことで、廣田氏は当時のブログで、「私自身は、この映画には試写会で出会い、一度取材しただけの関係です。(中略)ただひたすら、この力強く美しい映画が、杜撰な扱いをされていることに、我慢がならないんです。(中略)興行成績が悪いと、業界で『アレは駄目な映画だった』と烙印を押されてしまい、後々、ずっとマイナス・イメージが付きまといます。その悪循環から『マイマイ新子と千年の魔法』を救い出すためにも、署名にご協力ください」と熱い言葉をつづっている(廣田氏のブログ、2009年12月5日の投稿/「550 miles to the Future」http://mega80s.txt-nifty.com/meganikki/)。
 廣田氏の言葉のとおり、「マイマイ新子」が無風のまま公開早々に打ち切られ、映像ソフトも発売されないままだったら、片渕監督の名前が広く知られるようになった次作「この世界の片隅に」は製作できなかったかもしれない。当時を知るいちファンとして、「この世界の片隅に」の製作資金が集まり、それが国内で興行収入20億円を超えるヒットを記録したこと自体が奇跡的なことだったと認識しているが、その最初の一歩すらおそらく踏みだせなかった。「この世界」の製作陣は映画の制作中、作品を応援する人々が多くいることを示し、配給会社や製作委員会に参加する企業を募ることを目的にクラウドファンディングを実施し、目標金額2000万円を大きく超える3912万円が集まった。「この世界」の活動自体には廣田氏はほとんどタッチしていないが、その源流には「マイマイ新子」を草の根的に広めていった市民活動的なムーブメントが大きく影響していて、それがなければクラウドファンディングでこれだけの金額は集まらなかったはずだ。
 そんな経緯があったことで、廣田氏の没後にラピュタ阿佐ヶ谷でのレイトショー再上映が早々に決まり、そこで当たり前のように片渕監督が連日挨拶をするという公開当時の姿が再現された。これ以上ない追悼のかたちだったと思う。

プロライターの自負

もうひとつの追悼イベントは、東京・ロフトプラスワンで昨年9月に開催された「廣田恵介さんを語る会」。こちらはホビー系のライター仲間や担当編集者、廣田氏に取材を何度も受けたアニメ監督やメカデザイナーらが集った。定例の打ち合わせを無連絡で欠席した廣田氏を案じた関係者が、警察に連絡しながら廣田氏の自宅をたずねて死を知った経緯も報告され、その場の話によると原因不明の急逝だったようだ。
 イベントで告知された、廣田氏の紙媒体での最後の仕事になった「ホビージャパンヴィンテージVOL.11」(24年2月刊行)には、廣田氏の追悼記事「アニメと映画と模型を全力で愛したプロライターを偲ぶ 故・廣田恵介さんの仕事」が見開きで掲載されている。廣田氏の著書や、ライター以前の原型師や映像プランナー志望の頃の仕事が紹介され、近年はアニメ監督になる道も探っていたそうだ。
 追悼記事は「強情な人だった」という小見出しからはじまり、「(前略)正直なところ、われわれスタッフはその勢いについていけないことがしばしばあった(なにしろあの人は一度決めたら絶対に譲らないのである)」という一文があり、廣田氏のライターとしての姿勢の一面をよくあらわしているなと思った。廣田氏は、自分が担当した記事が権利元の監修によって理不尽に手をいれられることへの怒りを自身のブログでたびたび書くことがあった。そうした水面下のやりとりを表にだすのは本来ご法度で、仕事のことだけ考えたらデメリットしかないが、書くべきときは書く。周囲に厳しいだけでなく自身の仕事も律して、締め切りを守るために常に仕事を前倒しで進めるよう心がける。そんな自負から自身の肩書きを「プロライター」としていたのだろう。

私生活も書く

廣田氏はブログで、仕事の告知や最近見た映画の感想、海外一人旅の詳細な記録のほか、自身のプライベートなことも書き残している。離婚にいたった結婚生活のこと、長年対人恐怖症をわずらっていることに加え、母親が父親によって刺殺されたというショッキングな出来事も、自身の心の動きを淡々と見つめながら折にふれて振り返っていた。普通なら隠しておきたいようなことも、あえて書くのがライターとしての性(さが)だったのかもしれず、そうした廣田氏自身についての本を個人的にいつか読みたいと思っていた。廣田氏のブログの副題は「プロライター 廣田恵介に残された愛と冒険の日々。」で、生前の頃から、どこか遺言めいた内容だなと感じることもあったが、今となってはいちばん廣田氏らしい“作品”になっているようにも思う。いつまでネットにアップされ続けるかは分からないが、ご興味あればブログを読んで廣田氏の人柄に触れてみてほしい。(「大阪保険医雑誌」24年6月号掲載/一部改稿)

五所 光太郎

編集Gのサブカル本棚

[筆者紹介]
五所 光太郎(ゴショ コウタロウ)
映画.com「アニメハック」編集部員。1975年生まれ、埼玉県出身。1990年代に太田出版やデータハウスなどから出版されたサブカル本が大好き。個人的に、SF作家・式貴士の研究サイト「虹星人」を運営しています。

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