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インタビュー 2019年1月2日(水)19:00

押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか (3)

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ことほどさように、最近は「映画は、縦割りではなく横割りになった」とほぼ確信に近く思うようになったんですよ。同じ映像でも、どの出口、どの媒体でどういう手段で見るかによって、見え方がまったく変わってくる。「映画は時代とともに変わる」みたいなことを誰もが言うけれど、それって中身が変わるという意味に補完していると思うんですよ。たしかに中身も古びてくるし、そうでないものだけがまれに名画として残っていくという部分はある。もうひとつ、「映画は技術で変わる」というふうにも言われて、デジタルになった映画の何が変わるかが話題になったこともあった。でも、今の僕らが立ち会っている映画の状況の変化というのは、そのどちらでもない、もっとドラスティックなものであって、映画の縦割りの構造自体が崩れちゃったんですよね。

映像の出口にあたる媒体の数だけ違う映画があるんであって、もう根本から違うんですよ。つくり方、テーマのもち方、制作方法にいたるまで違ってきて、これを無視すると当たるものも当たらなくなるし、「カメ止め」のような思わぬ映画が当たったりもする。

今こそ日本でつくる映画は“企画”で勝負するべきだと思う。有名な賞をとった原作であろうが、何百万部売れた漫画であろうが関係なしに、それを小屋で見るモチベーションがお客さんにあるかないかなんです。これはお客さん自身が意識しているわけではないけれど、やっぱり今まで話してきたような横割りの構造のなかで何を求めるかがそれぞれ違っていて、おそらくそれは行動として表れているのだと思う。配信だったらこういうものが見たい、映画館に行ってお金を払って見るんだったらこういうものを見にいきたいと、必ず選択しているはずなんです。言葉にしていないだけでね。

そうしたお客さんのモチベーションを前提にしないで映像をつくっても上手くいくわけがないよね。映像の豪華さではハリウッド映画には絶対に勝負にならないことを誰もが分かっているし、彼らは世界を相手に商売しているわけだから。日本はまずは国内で勝負するしかなくて、しかも最近は多少増えたみたいだけど、それでも観客の数は韓国と比べても数分の一だからね。今は、話題になったから久しぶりに見にいくかという人間があらわれないかぎり、映画は絶対にヒットしないんだから。あとは映画マニアがいるだけで、実態としてはとっくにマニアの世界になっているんだよ。社会的な現象になったときにはじめて数十億円というヒットが生まれるわけで、毎年何本かはそういう現象がおきるわけだけど、同じことを年に10回、20回と繰り返せるはずがない。年に何本かだから、普段映画館にこない人がくるんであってさ。それを何倍かにふくらまそうって発想自体、なんの根拠もないものだから。

なぜ僕がそういうことを考えるかというと、それが分からないと監督自身の勝負ができないからです。監督が今与えられている役割に特化しちゃったらなんの意味もないし、ましてや職業監督ですからね。どの役割にも対応できて、なおかつそこで何をすべきか判断して、方法論をふくめてそれを実践できないと、自分自身の映画をつくることができない。そうでないと偶然性に頼るしかなくなって、今はほとんどの映画がそうなっていると思います。

是枝(裕和)さんのやり方なんかはとても正しくて、自分の立ち位置をよく分かっている人だと思います。どこで自分が評価されているのかちゃんと分かっていて、だから彼の映画が当たるのは不思議でもなんでもない。最近当たった映画って、どこかしたらそういった部分があると思うし、それを意図的に考えて実行できるのはプロデューサーと監督しかいないはずなんですよね。

でも、現実にはほとんどがそうなっていない。すでに脚本があって、場合によってはキャストも決まっているなかで、そこから監督を探そうみたいな“勝負”もある。それって作戦も戦略も決まっているなかで戦争の指揮を執れというのと一緒で、それじゃ勝てるわけがないし、プロデューサーと監督の関係としてもいい関係ではないと思う。本来ならば、作戦を考えるところから話しあわなければどうにもならないはずだから。

今は映画が受容される環境自体が大きく変化していて、これってデジタル化以上に大きな変化なんです。そうなると映像をつくるさいの選択肢がたくさんあるのに、つくる側がそれにまったく対応しきれていないし、判断する根拠すらもてていない。私に言わせると、原作が売れているからなんていうのはなんの根拠にもなっていなくて、スポンサーを説得する材料にしかなっていないと思います。

製作費は安くていいから、もっと作品の数で勝負するべきなんです。10~20館でスタートしても当たったら自然と広がりますから。今は小屋の自由裁量権が大きいんだから、選択肢が小屋やお客さんにしかない以上、あとは作品の中身によって決めるしかなくて、でもこればかりは何がどう当たるか誰にも分からない。だから、数をつくるしかないんです。考えてみると、昔の邦画はそういうふうにつくられていたんですよね。2本立てや3本立てを山のようにやって、人気がでたものは必ずシリーズにしていく。「眠狂四郎」「社長漫遊記」「座頭市」……どれもそうやってジャンルになっていったわけで、その影には消えていった作品が数十倍はあったはず。それが正しい姿だと思います。

映画を見る手段が増えた結果、映像の縦割り構造が壊れ、横割りのジャンルの数だけお客さんが求めるものが増えてきた。つくっている側にも「なぜ、これをつくっているか」という根拠もなくなってきて、ただ当たったものが前例になっているだけ。そんななか、「どういう仕掛けにするか」とか、「どうやって当てるか」ということは“企画”じゃないんですよ。私に言わせれば、「山ほどつくること」自体が“企画”と呼ぶに値するのであって、そのなかで当たるものも自然発生的にでてくるだろうし、そうじゃないものは自然と淘汰されて消えていく。

しかも、今の時代は淘汰された作品さえネット上に残すこともできるわけで、そこから敗者復活であがってくる作品もあるでしょう。物語の器として映像をつくるのならば、とっとと実写でやるべきで、実写ならワーワー言ってつくっちゃえば、すぐにできますからね。昔の映画なんて、ほとんど1~2週間でつくっていたぐらいで、まあ撮影所があった時代のことですけれど。実写のスタッフはみんな暇なんですから、どんどんつくればいいんですよ。今のアニメーションには、その余地がないですけどね。アニメは量産が効くと思ったら大間違いで、実写のほうがよっぽど量産に向いているんです。

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