2022年2月28日(月)19:00
【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第38回 追悼・小牧雅伸さん(元アニメック編集長)
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去る年1月24日、元アニメック編集長として知られる小牧雅伸さんが急逝された。前ぶれのない第一報で、心底激しい衝撃を受けた。享年67歳、早すぎる。実を言うといまだ気持ちの整理はできていない。
アニメックと言えば「機動戦士ガンダム」の1979年本放送時に富野由悠季監督直撃インタビューや、型式番号RX-78など設定の裏づけを出版面で支えて初期の人気拡大に貢献した。その方針を決めた編集長であり、2019年にはKADOKAWAから「アニメック ガンダム40周年記念号」も出ている。それは井上伸一郎さんを筆頭に同編集部からの人材を輩出したからで、歴史的な流れは追って整理されるであろう。
自分にとってはいろんなことを教えていただいた先達であり、師匠的存在で恩人でもある。今回は心よりご冥福をお祈りしつつ、私的に故人を追悼してみたい。
まずWikipediaを開いてみたら、いきなり大間違いが書いてあって驚いた。「1974年、東京電機大学入学のため上京。放送中の『宇宙戦艦ヤマト』を知り、ファンクラブ『ヤマトラボ』に入会する」(22年2月25日アクセス)となっている。順番がまるで違う。75年2月、日曜日の円谷プロで行っていた怪獸倶楽部の会合に、小牧さんがSFファンダムの友人に誘われて来たのが氷川の初対面で、まだファンクラブはない。この日は大阪から開田裕治さんも来られ、中学生だった原口智生さんがウルトラセブンのスーツを着用したり、放送中の「ウルトラマンレオ」のラッシュフィルムをいただいたりで、大変楽しい1日となった(当時円谷プロ勤務の竹内博さんの許可を得ている)。
そのとき小牧さんはA4サイズの紙を自己紹介がわりに差し出した。青焼きコピーで近況をイラスト混じりで記したミニコミ(当時の呼称)だ。発行年月日や通巻まで書いてあり、フォーマットとしてキチンとしているばかりか、白衣のタヌキに扮した「マイキャラ」まで描かれていた。「自分の発信メディアを持っている」という点に、まだ高校生だった自分は心から感服し、触発された。今のように「ネットで誰でも自己発信可能」な時代ではない。コピーも文房具店で1枚50円が普通で、ようやく10円コピーが出始めた時期だ。
すでに「宇宙戦艦ヤマト」の制作現場から「資料」をいただいたりしていた時期だが、アリモノを収集し、仲間内で複製するだけではダメだと思った。「やはり発信していかなければダメなのか」と自覚したきっかけなのである。先行する「SFファン活動」はアメリカの流儀を参考に洗練されていて、そこも感心した。そんな流れに乗って1975年の春ごろ、「宇宙戦艦ヤマト」放送後に発足したのが「C.B.Y.L.コスモ・バトルシップ・ヤマト・ラボラトリー」(長いね)で、初期は小牧さんも中核にいたはずだ。
そんな小牧さんがラポート社の広報誌を発展させ、文字がやたらに多いアニメ雑誌「アニメック」の編集長となった経緯などは、09年に自伝「アニメックの頃… 編集長(ま)奮闘記」(NTT出版)に詳しいので、ここでは割愛する。強調したいのは、「開拓者のひとり」だった点だ。前例が出来る前に「すでにやってしまった人」なのだ。だから、こちらが先に作ったものに後乗りで参加する人ではない。絶対に間違ってはいけない順番が、先述の部分では逆になっているのを憂慮している。
ここ数年、世代交代もあって往時を知らない人が記述する歴史が増えたが、こういう部分の間違いが多い。往々にして同人誌も商業誌も「すでに当たり前にあった」と錯覚した視点で書かれてしまうのだ。だが1970年代は「既存のものがないから作った」と「開拓の繰り返し」「当たり前にしていくプロセスの連鎖」であった。特にその後、10年、20年……そして半世紀近く「やむにやまれぬ気持ちで活動継続」している人材、しかもリーダー的な人となると、本当に限られてくる。
その限られた人のさらに限られた役割として、「チャンスメーカー」と呼ぶべき一群がいるのだと、近年になって考えるようになった。19年にパソコン通信・ニフティサーブ「アニメフォーラム」でマネージャーを担当していた外川康弘さんが亡くなったとき、激しい喪失感とともに把握したことだ。つまり単に「場を統括する」のではなく、「人を見る人」が草創期には必要不可欠である。「あなたにはこういうことが出来る」と呼びかけたり、出てきた成果を喜び、即断即決、前向きに背中を押すタイプの人でもある。自分自身まったく出来ない方向性の行動なので、やはり大きな恩義と感謝がある。
小牧さんとのお付き合いを振りかえると、そういう局面をいくつもいくつも思い出す。その記憶にあるのは常に笑顔だ。アニメックのとある原稿がどうしても書けなくなり、苦し紛れに「アニメによくあるパターン」を書き綴って、ワルノリで「続く」と書いたらホントに連載になったりした。月刊誌が休刊した後、アニメック編集部はムックやマンガアンソロジーを出すようになる。それがまわるようになったころ、小牧さんは「アニメの評論本を書いてみないか」と声をかけてくれた。他にもライトノベルという言葉がない時期、「この人なら小説書けますよ」とパーティーで他の編集者に紹介してもらったこともある。どちらも実現しなかったのは自分のせいだが、自然体でチャンスを人に振りまいていた様子の一端が分かるだろうか(本人に自覚がないのにはホントに困ったが)。
なかでも後世に多大な影響をあたえたのが、藤津亮太さんのデビューである。98年、富野由悠季監督が「ブレンパワード」で活動再開したのを契機に、当時週刊誌の編集だった藤津さんの采配で氷川が取材することになった。そこで富野監督の健在ぶりを知った自分はツテのある編集者に声をかけまくり、小牧さんにも連絡した。そこで実現したのが単行本「富野語録―富野由悠季インタビュー集」(ラポート)である。これまで受けてきた触発のリターンであり、一種の恩返しでもあった。後にこれを補完するように、藤津さんと氷川で00年に「ガンダムの現場から―富野由悠季発言集」(キネマ旬報社)を編纂することになる。
こうした事象の連鎖の中に、99年のムック「機動戦士ガンダム宇宙世紀 Vol.4 総括編」がある。これを丸ごと手がけないか、という無茶ぶりに近いオファーが小牧さんから来た。宇宙世紀全作品の振り返りなら、オープニングと予告編のフィルムを焼いてもらい、設定をいただければ素材は何とかなる。やりますよと提案型で返したものの、恐ろしく短納期なのだ。そこで自分は誌面構成に専念し、ライティングは富野取材後もしばらくお付き合いのあった藤津さんに「やってみます?」と声をかけた。小牧さんも「あなたが言うなら」と全面信頼である。そして予定どおり質の高い原稿が上がってきて事なきを得たのだった(納期的にはヒヤヒヤものだが)。
以後の藤津さんのご活躍は皆さんもご存じのとおりである。ただしそれに関しても「藤津さんが氷川に声をかけた」が最初にあったし、「かつてのガンダムファンは立派に成長してキチンとした仕事をしているんだな」と触発されたのは、こちらである。「チャンスメーカー同士をつないだ」みたいなことかもしれない。40代には20代のリフレインのように、ずいぶんこうした「人のつながり」ができたし、そこにも小牧さんの存在が大きくあった。
またそこから20年が過ぎて、こうした「人の世の機微」が希薄になってはいないか。分断が大きくなってないか。大事なひとの喪失は、ネットにあふれる情報に呑み込まれがちな日々を振りかえり、さらなる20年をキチンとやるための契機にも思えてしまう……。
「チャンス」や「縁」といった「価値の根源(ソース)」を受けとったからには、受け手も何か返したり、新しく送り出して回したほうがいいに決まっている。近年流行の「持続可能」には、こうしたインプットとアウトプットをセットで考え、関係性を「回す発想」の欠落をたまに感じる。
「社会的な営み」「人間のシステム」「永続性」の本質は、サイクリックにエネルギーが循環する「回路」だと、ますます思うようになった。価値の輪に参加できてホントに良かったと思うし、その「輪を回す概念」自体、小牧さんたち数年先を歩いていた諸先輩から受けとったものだと再確認しておきたい。その上で、可能な限り持続的に価値を回し続けていきたいのである。
さようなら、小牧さん。本当にありがとうございました。
氷川竜介の「アニメに歴史あり」
[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ) 1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。
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