2022年8月27日(土)19:00
【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第41回 「Gのレコンギスタ」極限状況における人のふるまい
富野由悠季原作・脚本・総監督による劇場版「Gのレコンギスタ」(「Gレコ」と略)が完結した。2016年に放送されたテレビアニメ全26話を全5部作としてまとめ直したもので、「IV 激闘に叫ぶ愛」「V 死線を越えて」とクライマックスの最終2部は一挙公開である。
テレビ版ブルーレイソフト各巻の解説書に寄稿し、締めくくりの富野由悠季監督インタビューも担当したから一度終わっている気になって油断していた。ところが今回の連続公開で、「実は何にも分かっていなかった」と気づかされてしまった。題名の「レコンギスタ」の元になった「レコンキスタ」、つまり8世紀から800年にも及ぶイベリア半島再征服活動についても、調べてみたくなった。つまり「刺激を受けたら、自分で疑問を持ち、積極的に調べて考えてみることが肝要だ」と思わされたのである。これは富野監督が「子どもに向けた」と語った真意でもあろう。
もともとテレビ全話の脚本を富野監督自身が手がけていたため、劇場化でも作品内容は大きく変わっていない。説明をセリフで丁寧に入れ、主役のベルリとアイーダ中心にキャラクター描写と語り口を変え、さらに戦闘シーンは苛烈にパワーアップされるなど随所がリニューアルされているが、印象が変わった理由はそれではなさそうだ。
やはり大きいのは「世情の変化」である。受け手としての心情が丸ごと変化したという実感がある。テレビから劇場への移行期間、ことに2020年以後に複数起きた、世界規模の激震の影響ということだ。
COVID-19ウイルスのパンデミックに対する感染回避対策は「密」を奪い、個と個の分断が現出した。世の中の基盤が随所で「人肌の触れあい、空気の共有」で成り立っていることが明るみに出た。富野アニメの常として「Gレコ」は登場人物の身体性に配慮が行き届いている。劇場版では肩に手をおく、ハグするなど随所で接触描写が目立っているから、完全に元には戻れない変化が起きた。同時に「オンラインで必要な部分だけのコミュニケーション中心でいいのか」と疑問も起きた。
右肩上がりの成長や進化が当然と思いこんでいたが、退行もあり得るという認識は大きい。今後、致命的なウイルス変異が起きない保証もない。小松左京作「復活の日」で描かれたような全人類破滅の危機は、潜在的に存在し続けるようになった。
これも「Gレコ」が提示した世界観の一部を想起させる。作中では何らかの災厄で全人類絶滅の危機を乗りこえたことが、随所で暗示されている。ようやく自然もある程度は回復したものの、カニバリズム(食人)の対象だった種族クンタラのルサンチマンは消えたりしない。これが最終局面まで残るマスク大尉とベルリの激戦、あるいは越えるべき「死線」の前提となっている。この意味性も、テレビ時点とは違って見えた。
これは明らかな飛躍だが、たとえば「もしコロナ禍がDNAによって選別する作用をしていたら」と考えたりする。現状COVID-19は国境を越えて全人類平等に作用し、ワクチン等も国際協力のもとに効力を発揮している。その意味では人類は、外見によらずほぼ同じDNAをもつことが再確認させられた。一方、これが不平等に作用し始めたらどうなるのか。ワクチンや特効薬を選別的に作成できたらどうなるのか。クンタラの件は、そうした思考実験を喚起させる。
もうひとつは「世界大戦」の可能性が急上昇したことである。ロシアのウクライナに対する軍事侵攻の状況は、かつてないほどの頻度でニュース映像となり、日本の生活圏へ身近な問題として伝わってくる。対ウイルスで見せた一致協力体制が人類のポジ像だとすれば、そこにはネガ像もあると明示されたのだ。
ここに至って連想されるのは、ガンダム20周年記念の1999年にリリースされたアルバム「REVERBERATION in GUNDAM」(テイチクエンタテインメント)の一節である。
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「プロローグ -歴史から」
セリフ台本:井荻 麟 作曲:井上大輔 ナレーション:池田秀一
宇宙世紀(ユニバーサルセンチュリー)の初頭、地球連邦政府とスペースコロニーのひとつ、ジオン公国が、 大戦をした。
地球での戦争の歴史を、宇宙でもくり返したのだ。
人は、知恵を本能にしたがわせ、自分の足場が亡くなるのを気づきながらも、自らの存在を謳歌した。
身の丈以上の道具を弄べば、自らを滅ぼすのは自明のことだろう。
それを制御できると考えるのは、エゴの増長……傲慢の拡散! 愚鈍なる者の放つ花火!
それでも、ガバナーたち、マッド・サイエンティストたち、ミリタリアンたち、それら魂のない者たちは、それを弄ぶ。
巨大な道具を時代の象徴と信じて!
(同・解説書より引用)
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「REVERBERATION」は「残響」を意味する。通常の残響なら振幅エネルギーが減衰して消えてしまうが、「戦争」は違う。「歴史はくりかえす」の言葉どおり、減衰して見えたエネルギーはどこかに歪みを生み、圧力が蓄積される。いつかまた「新たな戦争」となって火を吹くために。「レコンキスタ」もその運動の好例なのだろう。この「セリフ台本」には、富野由悠季(井荻麟)のそんな歴史認識が凝縮されている。だから「Gレコ」でも予見性を導いていたのかと推理した。
ガンダム20周年のとき、氷川は「現状追認を否定し、考え直すヒントを多々あたえてくれる作品がガンダムだったはずなのに、いつの間にか玩弄物になって……」と思っていた。そここの言葉を聞き、驚愕させられた。そこから20数年経った現在、劇場版「Gレコ」最終2部の随所にこの記憶を刺激する描写を見いだして、思わず身を乗り出してしまったということでもある。
他にも理由はある。「武力による現状変更」のような剣呑な単語を毎日のように聞かされている世情と並走して、大学で講義している「特撮の歴史」の質疑に危惧を覚えたのだった。何人かの大学生が「戦争反対」を絶対的なものとしている。当然「良いこと」なのだが、その概念に「根拠」を持っていない。複眼的な視点が欠落しているのだ。
たとえば円谷英二が特撮の本領を発揮した1942年の映画「ハワイ・マレー沖海戦」――太平洋戦争の火蓋を切った帝国海軍のハワイ真珠湾攻撃を精緻な技術で再現したこの国威発揚映画を、当時の役割の是非は留保しつつ歴史の礎のひとつ、日本特撮を語るマストとして紹介した。ところが「円谷英二は戦争協力に、ためらいを抱かなかったのでしょうか」という質問が複数来た。
開戦時、日本国民がどれだけ緒戦の戦果に熱狂していたか、伝わっていないのである。その熱狂が呼びこんだ終戦間際の窮乏や大空襲、原爆の悲劇性と片面だけが強調されている。「愚鈍なる者の放つ花火」(先述の引用)への「熱狂」もセットで理解する相対的な教育は、戦争経験者たちの物故にともない、薄らいでいるようなのだ。
さらに1960年、同作のリメイク的要素をもつ戦記映画「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」を紹介したときには、「戦争を描く映画をつくった日本は、国際的な非難を受けなかったのでしょうか」という質問が出た。同作は円谷英二特技監督と東宝特殊技術課が定常的に戦記映画を作るため、有名なインフラ「大プール」建設の契機となったのに。それは第二次世界大戦終結から10数年が過ぎ、改めて「あの戦争は何だったのか」を小説、評論、映画などで総括しようと世界各国に国際的なムーブメントを背景にしている。だから、世界中で「戦争映画」が作られ、多面的な検証が行われていたのだ。
誰かに刷り込まれた片面だけの薄い「戦争反対」だけでは、いずれコロッと簡単にひっくり返されてしまうだろう。戦争には熱狂も美意識もあるし、そして誰にでも闘争本能や支配欲があり、消すことはできない(SNSを見るとよく分かる)。理性で制御しているだけだ。しかし個々の人間性と集団意識に支配された状況での人間の行動は、この制御を離れて真逆になったりする。戦争を全否定して遠ざけると学習機会が喪失し、かえって近づく。それは片渕須直監督の「この世界の片隅に」のときにも語ったことである。
多面的に事例をインプットし、実相を把握して自分の頭で考え、そうなったらどうするか、モデル化して両方の立場を想像し、理性でコントロールしていかないと、感情論のお題目「戦争反対」だけでは限界がある。「Gレコ」の最終局面では、複数勢力のせめぎ合いと勢力内異分子の活動が入り乱れ、カオスとなっていく。手柄を焦り、私情を交え、出し抜こうとして出し抜かれ、手を組んだ相手を次に倒す者に見定めるなど、さながら戦時における「人のふるまい」の見本市のようだ。バカバカしくあり得ないことさえ極限状況では起きる。同時に極限状態だからこそ、信じるに足る人の善き部分も輝いたりする。
1958年生まれでテレビっ子の自分も、どこかで戦争は「終わったもの」「遠いもの」だと思いこんでいた。だが、少年漫画雑誌にまで拡大した「戦記ブーム」で総括される「戦争のもつさまざまな顔」に、触れざるを得なかった。またプラモデル中心に玩具化された兵器類を通じ、戦争用の道具のもつ技術的美学と、それが他者支配に駆使されたときの恐怖の両面を、セットで疑似体験することができた。それはまさに第二次世界大戦の「残響」だったのではないか。となると1974年の「宇宙戦艦ヤマト」も1979年の「機動戦士ガンダム」も、「二次残響」と位置づけることができる。
勢い任せで書いたため、粗く未熟な論である点はご容赦いただきたい。戦中を経験している両親、親族、教師などが多かった時代(祖父は戦没して氷川生誕時にはいなかった)に育った人間として必要性を感じ、思うがまま綴ってみた。何か引っかかりを感じた方は、先の「プロローグ -歴史から」を脳裏にインプットした状態で、劇場版「Gレコ」を鑑賞し、そこからいろんなことを想像してみてはいかがだろうか(文中一部敬称略)。
氷川竜介の「アニメに歴史あり」
[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ) 1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。
作品情報
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