2025年1月11日(土)19:00
【明田川進の「音物語」】第83回 杉井ギサブロー監督との対談(前編) 虫プロの青春、趣味人だった田代敦巳氏
杉井ギサブロー監督(左)と明田川進氏
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本コラムで、愛称「ギッちゃん」として何度も話題にあがった杉井ギサブロー監督にご登場いただきます。杉井監督は、「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」「ナイン」「タッチ」「あらしのよるに」など多くの作品で知られ、明田川進さんにとって虫プロ時代の先輩、グループ・タック創設メンバーの仲間でもあります。
60年以上の親交があるおふたりの話はつきず、虫プロ時代の貴重なエピソードや、2010年に亡くなったグループ・タック代表の田代敦巳さんの思い出など、さまざまな話題が語りあわれました。
――明田川さんは1963年に虫プロに入社し、制作進行として初めて担当したのが「鉄腕アトム」の杉井さんの演出回だったそうです(※編注:取材後、原口正宏氏作成の明田川氏作品リストによって、63年9月17日放送の38話「狂った小惑星の巻」だと分かった)。
杉井:そうだったんだ。覚えてないなあ。
明田川:ギッちゃんではないけれど、絵コンテをなかなか描いてくれない人の自宅まで行って、早く描いてくださいとかやってましたよ。
杉井:僕は東映から虫プロにきた人間で、変な言い方ですけど当時の虫プロのなかでは、僕、坂本(雄作)さん、山本(暎一)さんは別格みたいなあつかいだったんですよ。この3人が、手塚(治虫)先生のところでアニメ部を立ち上げたメンバーでしたからね。特に僕なんかはわがままというか、やりたいことをやらせてもらっていた感じでした。
毎週放送されるテレビアニメの制作は大変で、特に締め切り間際は「魔の1週間」といって、ほとんど寝られないぐらいの忙しさでした。制作の責任者である山本さんや坂本さんの重圧は相当なものだったはずです。何回かもう駄目なんじゃないかという瞬間があって、2人が虫プロの常務の穴見(薫)さんに「もう『アトム』はやめましょう」と直訴しにいって、穴見さんから逆に「ここでやるかやめるかは大違いだ」みたいに説教をされて、「じゃあやるか」となったこともありました。僕自身は現場型でしたから、「アトム」を続けなければとか会社を維持しなければとかいうような重圧はなく、とにかく絵を描いていればいいやという気持ちでしたけどね。アケさん(※明田川氏の愛称)のような制作の人たちも大変だったと思います。当時は全部社内でやっていたし、なんでもやらされていましたからね。
明田川:忙しいときは月の半分ぐらい虫プロに寝泊まりしてましたね。仕事が大変すぎてストレスでアル中(アルコール中毒)になってしまった演出家もいて、お酒を飲むと描いてくれるんですが、飲ませるわけにはいきませんから。
杉井:アケさんが言ったアル中になった演出家は味のある上手い絵を描く人で、僕は彼の絵が大好きだったんですよ。とにかく何かでストレスを解放しないと飲んでしまうから、彼の家まで行って一緒に油絵を描こうと誘ったこともありました。
30分のアニメを毎週つくるのは本当に過酷で、僕の記憶では自分とりんたろう以外の演出家のほとんどは、一度は倒れていました。なぜ僕らが倒れなかったかというと、アルバイトで漫画を描いていたから漫画のデッサンができたんですよね。当時アニメーションを専門にやっている人は美大をでている人が多くて、絵画のデッサンと手塚先生のような漫画のデッサンってまったく違っていた。僕らは手塚先生の絵は得意だったから速く描くことができたんです。
このあいだもアケさんと話したんだけど、最近いろいろな人と話すと今は来年の仕事をやっているとかよく聞くから、ようやくアニメ界もスケジュールが改善されてきたのかなと思ったら……。
明田川:とんでもない(笑)
杉井:アケさんのところは相変わらず大変だと(笑)
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――虫プロに音響部ができた背景を、杉井さんは当時どのようにご覧になっていたのでしょう。
杉井:昔から東映では監督や演出が音響のディレクションをやるのは当たり前でしたが、制作と音響を分業する、今でいう音響監督や音響ディレクター制というのは最初アニメ界にはなかったんですよ。
虫プロの同僚で、のちに僕らとグループ・タックを立ちあげることになる田代(敦巳)氏が手塚先生に直訴して音響部をつくることになったのが、音の部分を切り離して別チームでつくるようになったはじまりです。田代氏は、毎週放送されるテレビアニメで演出家が毎回スタジオに行って音のディレクションをするのは合理的ではないから、演出家とアニメーターがラッシュ、つまり音のない絵まで仕上げれば、あとは音響部が役者さんや音楽家などの面倒はすべて引き受けますと手塚先生に言ったんですよね。ミュージカルに演出家とは別に音楽監督がいるように、分業しましょうという発想です。
また、当時演出をやっている人のなかで音楽が分かる人は非常に少なかったという背景もあります。「アトム」の初期の頃は、演出家が音響の大野(松雄)さんに「このカット割りで、どこに音をいれたらいいんだよ」と基礎的なところで叱られることもありましたから。田代氏は大学でバンドをやっていたから譜面も読めましたからね。虫プロの音響部が、今につながるアニメの音響の世界のはじまりといっていいと思います。
明田川:コラムでもお話しましたが、「鉄腕アトム」の頃はフジテレビの別所(孝治)さんという方がアフレコのディレクションをされていました。「鉄腕アトム」の頃の田代氏は、別所さんの手伝いとしてアオイスタジオに台本を届けるなど段取りをとっていたんです。
杉井:僕らの世代は、わりといろいろなことにチャレンジできる世代だったんですよ。今の人たちはベースができているなかで監督や音響監督になっていますが、僕らの頃は良くも悪くもめちゃくちゃでしたから。
明田川:何もかもできあがる前だから、これからつくっていくって感じだったよね。
杉井:何もないところで、いかに早く自分の場所をつくれるか早い者勝ちなところもあったね。僕のことで言うと、山本さんが「ジャングル大帝」をやるんだったら、僕は「悟空の大冒険」で違ったことをやろう。りんたろうはりんたろうで、杉井や山本がやらないことをということで「佐武と市(捕物控)」をやるというような競争は、わりとしていました。
虫プロに音響部ができてから、田代氏とアケさんはずっとコンビだったよね。僕と田代氏はジャズが好きでオーディオマニアでもあったから、田代氏はよくうちに来てゴトウユニットやアルテックのスピーカーの話をするなど趣味の部分で付き合っていたんですよ。アケさんと田代氏はどちらかというと会社の付き合いで、田代氏のオーディオ趣味にはあまり絡んでいないよね。クールな付き合いだったのかな。
明田川:いやいや(笑)
杉井:正月休みを返上して、九州を車で一周しながら養護施設をまわったときは3人一緒だったよね。須藤(省三)さんという撮影の人もふくめて4人で行ったんだけど、あれはよくやったなあと思う。田代氏が僕のところにきて、正月に家に帰れない子どもたちに「アトム」を見せるツアーをやりたいからと誘われて、そのときにはもうアケさんもメンバーに入っていた。
僕はそのツアーに行く2日前に免許をとったばかりだったんだけど、3人とも車の運転が上手いんですよ。アケさんはとくに上手くて、下りの山道とか普通に走るのも難しいのに「くの字にいくんだよ」なんて言って、すーっと下っていって。免許とりたての僕が運転する番のときは冷や冷やさせたし、とにかく車の運転が大変だった記憶がある。そのぶん、ツアーから帰ってきたら車の運転が一気に上手くなっていました。
明田川:ギッちゃんはアトムの絵が描けたから、子どもたちが大喜びしていたよね。
杉井:大きな紙を貼って、漫画大会だってわーっと描いたよね。「アトム」の16ミリフィルムと映写機、スポンサーからもらったお菓子を車に山ほど積んで、子どもたちにとっては良かったんじゃないですかね。僕らは車の中で寝るなどして、まともなホテルには泊まらない強行軍で、たしか熊本に行ったときに1日だけ贅沢しようとホテルにひとり1室ずつ泊まったのを覚えている。田代さんは、もちろん子どもたちのためというのもあったんだろうけど、そうやってみんなで九州を一周したかったんじゃないですかね。
――1967年に杉井さんはアートフレッシュを設立して虫プロを離れられます。
杉井:アートフレッシュは、虫プロにいた高木のあっちゃん(※高木厚氏)が出崎統ちゃんと一緒に「ビッグX」の仕事をとって、自宅の上につくった小さなスタジオでやっていたのが始まりです。僕は最初、坂本さんから「競争相手の東京ムービーの仕事を虫プロの給料をもらいながらやるのは駄目でしょう。ギッちゃんの紹介だけど、あっちゃんには辞めてもらおうと思う」と聞いて、それはちょっと待ってほしいと、あっちゃんに「ビッグX」の仕事をやめさせるために彼の様子を見にいったんです。
そうして彼と話していたら独立プロも悪くないなと思って、「僕も虫プロ辞めるから一緒にやろうか」と言って、アートフレッシュという名前は高木厚がつけたんです。説得する側の僕まであっちに行ってしまったから虫プロは大騒ぎになって、辞めた杉井にはもう仕事をだすなという声もあったそうなんですが、僕はその後も虫プロの仕事ができていました。これはあとで聞いたのですが、裏切り者の杉井に仕事をだすのはおかしいという声がでたときに、手塚先生が「ギッちゃんには仕事をだしてください」と言ってくださったそうです。
明田川:虫プロ内はざわざわしてましたが、僕は素直にうらやましいなと思ってましたよ。アートフレッシュのメンバーはエリート集団でしたからね。
杉井:アートフレッシュはアニメ界で最初の独立プロだったと思いますが、独立プロは常に風前の灯で保証なんて何もないですからね。いつ会社が駄目になっても食べていけるぐらいのやつばかり集めようと、アニメーターの吉川惣司君、奥田誠治君、宇田川一彦君、そして制作に福島(信行)さんなど腕に覚えがある人たちばかりが7人集まりました。出崎統ちゃんさんも当時から上手かったですからね。
明田川:当時はビートルズカットが流行っていて、ギッちゃんがその髪型をしていて格好いいなと思ったのをよく覚えている。ギッちゃんがアートフレッシュに行ってからは、遊びでの付き合いだけになったよね。みんなで野球やボウリングをしたり、レース場でミニカーみたいな小さな車を走らせる遊びもやった覚えがあるなあ。ジャズのコンサートにみんなで一緒にでかけたり、レコード屋に行ったりもしたよね。
杉井:僕が「どろろ」をやっているときに、会社を作りたいんだけど、ギっちゃんも一緒にやらないかと田代氏が家にきたんです。音響の会社だったら僕は関係ないんじゃないのと言ったら、田代氏は音響もやるけれど将来的にはミュージカルのアニメーションをつくる会社にしたくて、それには演出家がいるから加わってくれと。その時点で冨田勲さんとアケさんにも声はかかっていて、ミュージカルのアニメをやるのは面白いからいいねとアートフレッシュを抜けてグループ・タックの設立に加わったんです。
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――明田川さんのコラムでは、折にふれて田代さんのお名前がでてきます。杉井さんから見て、田代さんはどんな方でしたか。
杉井:田代さんという人は、なんというか趣味人なんですよ。ヨットもやっていたし、音響の面でも晩年は古い蓄音機を集めたりしてね。音響ディレクターとしてはとても優秀な人なのですが、経営者ではなかったように思います。タックも「まんが日本昔ばなし」や「タッチ」が当たったり、NHKの仕事をやるようになったり、良いときがけっこうあったたんですけれど。
僕がタックで作品づくりがしやすかったのは田代氏が趣味人だったからで、僕がこうしたいとわがままを言っても、「いいんじゃないの」と言ってくれることが多かったんです。あとやっぱり音響の技術的なことや、映画の音楽というのは使い方によって映像の表情が変わるんだとか、そうしたディレクションが田代氏は上手かったんですよね。役者とのやりとりも本当に上手かった。僕と田代氏で意見を戦わせて喧嘩になったこともあったけど、音響ディレクターとして良いセンスをもっていたよね。アケさんなんかも、そういう面では勉強になったんじゃないの。
明田川:それはもう、ずっと勉強になってましたよ。音響の仕事をやりだした頃は、田代氏のやり方をずっと見て、その真似ばかりしていました。
杉井:田代氏は、音響ディレクターとしてはアニメ界でトップだったと僕は思う。センスが良いし、わりと挑戦的なこともやりたがって、ときどき失敗することもあるんだけど、「えっ、それでいいの」みたいなこともためらわずにやることが多くて。そういう趣味人なところが僕とは合っていた気がするし、いろいろな面で勉強させてもらった人でした。
僕はマジックカプセルがここまで立派にやれてきているのは、アケさんが「ジャングル大帝」でやった設定制作出身だからというのが大きい気がしているんですよ。全体を見て、きっちり会社の運営や経営をやっているよね。かたや田代氏は根っこが趣味人で、音響ディレクターとしては素晴らしいものの、田代氏が社長をやっていなければタックがつぶれることはなかったんじゃないかという声も多かったですから。ただ田代氏は病気になる前の元気な頃から「タックは俺一代でいいんだ」と言い続けてました。誰かに会社をゆずって継がせる気はなくて、後継者を育てるつもりもないようだった。僕はそういうことはどうでも良かったから、「ああ、そう」なんて聞き流していたけれど。
明田川:でも、僕から見ると、田代氏が困ったり、つまずいたりしたときの相談相手って必ずギッちゃんだったんだよね。
杉井:そうだね。
明田川:ギッちゃんのアドバイスのおかげでタックが持ち直したとか、新しいことができたっていうことばかりだった気がします。
杉井:虫プロの倒産のあおりをうけてタックの経営があやしくなったとき、「宇宙戦艦ヤマト」の西崎(義展)氏に買いとられそうになったことがあったんです。西崎氏も虫プロ出身で、彼がもっていたヨットを田代氏が買ったこともあったらしく、2人はけっこうつながっていたんですよ。で、田代氏が西崎氏の買いとる話にグラッときていたようだったから、僕は「やめたほうがいいんじゃないの」と言ったんです。西崎氏と組んだら、彼にタックをとられちゃうよと。そんなことをするぐらいだったらタックが取引している銀行に行って、「倒産しそうで危ないから協力してくれないか」と正直に言ったほうがいいんじゃないのと。田代氏は、そんな話に銀行はのらないだろうと言っていたけど、どうせ危ないんだからとにかくやってみたらいいんじゃないのと言ったら、最終的に銀行に相談にのってもらえて助かったことがありました。
明田川:銀行には田代氏ではなく、公認会計士の勉強をやっている僕の大学時代の後輩が行ってくれたようです。その後輩にはマジックカプセルの経営のアドバイスもずっとしてもらっていて、つい最近まで役員でもありました。
杉井:アケさんもよく知っていると思うけど、田代氏はそういうときに判断が速すぎるんだよね。彼自身は自分の世界をもっているから会社がなくなってもどうにでもなったんだろうけど、会社の経営者としてその判断でいいのかと思うようなときもあったんです。そういう意味でも彼は趣味人だったんですよね。
協力:マジックカプセル
司会・構成:五所光太郎(アニメハック編集部)
明田川進の「音物語」
[筆者紹介]
明田川 進(アケタガワ ススム) マジックカプセル代表取締役社長、日本音声製作者連盟理事。日本のアニメ黎明期から音の現場に携わり続け、音響監督を手がけた作品は「リボンの騎士」「AKIRA」「銀河英雄伝説」「カスミン」など多数。
作品情報
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21世紀の未来世界で、十万馬力等7つの威力を持つロボット少年アトムが大活躍する物語。日本初の国産テレビアニメシリーズとして記念すべき作品。
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