2019年6月29日(土)19:00
【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第17回 アニメ演出の根幹とレイアウト
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「高畑勲展―日本のアニメーションに遺したもの」が東京国立近代美術館で始まった(7月2日から10月6日まで)。筆者も「アニメーションの変革者」という2万文字を超える長文の総論を図録へ寄稿している。言うまでもなく高畑勲監督は日本のアニメーション監督中、最大級に影響範囲の広い作家であり、正直言って荷が重かった。だが、高畑勲・宮崎駿作品研究所代表の叶精二氏が各論を書かれるという前提で、なるべく新しい視点が得られるよう努力したので、ご一読いただけたら幸いである。
その執筆過程で、最終的にまとめたもの以外の考察も副産物として大量に出てきた。「マスターにあたる作家」を語るということは、根本を考えぬくことだから当然でもある。今回はその一部を応用して、展開してみたい。
もっとも引っかかったのは「そもそもアニメーションにおける演出とは何か」という根本中の根本である。多くの人は「演技づけ」だと解釈しているだろう。登場人物の内面を外部へ表出するため、表情をつけたり身ぶり手ぶりを変化させたり、行動させたりする。演者に指導するのは、たしかに演出家の仕事である。
しかし、演出家の役割であるディレクション(方向づけ)とは、それだけなのだろうか?
ここで思い出すのは、脚本に対してある映画関係者が語っていた言葉だ。
「脚本に必要なのは、場面と登場人物。人物は何人なのか。板つき(場面転換したとき最初から舞台にいること)か出入りがあるのか。2人以上いれば、それが絡むのか絡まないのか。それだけ書いてあればいい。極端な話、絡んだ後で何をするのかも要らない。セリフだって場合によっては要らない」
別件で会話が途切れてしまったので正確な引用でもないし、以下も自分なりの考察となる。この話が妙に引っかかったのは、舞台劇、実写映画に共通する「劇作」の抜本に触れている気配を察したからだ。それまで蓄積されてきた経験に、「あれ?」と考え直す契機をあたえてくれたのである。
まず、この話は極論ではあるものの、非常に正しい。「行動もセリフも要らない」というのは、書いてなかったとしても実写なら役者がそれを生成してくれるということだろう。おおまかな筋立てだけ決めておいて、詳細部分は役者のアドリブ、その場のライブ感覚で進行する舞台劇も、たしかに存在する。
自分なりに見てきた「脚本の読解」にも合致している。脚本には「○ナントカ研究所(夜)」のように舞台や時制が明記された「柱(ハシラ)」と呼ばれるものが書かれる。これが実写では美術に対する指示になり、美術部がセットを作る。「夜」と付記されるのは、ロケ撮影になった場合は弁当や帰路の足を制作部が確保しなければならないからだ。アニメの場合は背景美術になり、脚本全体で美術設定をいくつ用意しなければならないか等も、この「柱」で決める(設定制作が読みとってリスト化して発注する)。
決定稿後はこの柱の「○」に「シーンNo.」を打ってスタッフが共有し、そのシーンの中でカットを割る。実写のカチンコは「S-19 C-10」と、「シーンNo.」「カットNo.」を併記したものが多い。アニメでは効率と管理の問題で、通し番号の「カットNo.」だけにまとめるのが主流であるが、東映の劇場アニメや細田守監督は「シーン・カット制」を採用している。つまり個別のカットに埋没するのではなく、「そのシーン全体で何をするか」に対する意識が強く働いている。
そうすることで「そのシーンから(基本)出ていかない」「出る場合は出る意味がある」という意識が生まれる。それは思い返すと、細田守監督作品を特徴づけるもののひとつになっていて、先の話にも通じているように思えてくる。
高畑勲監督もまた、細田守監督と同じ東映動画(現:東映アニメーション)出身である。そして諸作を振りかえると、やはりこの「シーン・カット制の意識」が強い。舞台(シーン)、舞台をキチッ、キチッと決め、映画全体では、その舞台から舞台への転換、流れ、起伏などをキチンと設計し、観客へ過不足なく見せるべきものを提示していく。「現代編」「過去編」と「ふたつの時間」が混在しながら、ひとつの人格形成を物語る「おもひでぽろぽろ」(1991)が、これに関しては格別に顕著である。
筆者は「日本のアニメ作品は“映画にする”という意識が強い」という、漠然と共有されている認識に対し、「それは具体的に何のことを指しているか」をずっと追い求めてきた。その答えのヒントが、ここにも見え隠れする。
もうひとつ、アニメーションには実写とは異なる性質が存在することも、この考察から浮き彫りになった。それは「カットを割れば背景が根本から変わってしまう」という特殊事情によるものだ。「当たり前」と思ってはいけない。実写の場合はセットに対して適切なカメラポジションを用意してつないでいけば、「同じ被写体だ」という意識が生まれる。「根本から変わる」ということはない。しかしアニメーションは「違う紙に描かれている」というだけで、観客は「これは違う場所(舞台)」と察知する。
となれば、先の「シーンを固まりとして観客に認識してもらう」という意識が、カットを割っただけで瓦解することになる。しかしながら、セルアニメの画は「軽い」ため、長回しのカットは間が保たない……。などと考えていったとき、「なぜ高畑勲監督が宮崎駿に全カットのレイアウトを託したか」という理由の中でも、もっとも大事なことが、ようやく見えてきたのである。
つまり全カットに対し、先の「脚本の原則」と同じ発想に基づく「映像演出の指示書」を作成させたということだ。
パッとカットが変わる。そこに新しい舞台(背景)が生まれる。生まれた舞台に人の出入りはあるのか、板つきか。何と絡むのか、絡まないのか……。そんな「劇作の基本」を「具体的な画」に転換させたのが、レイアウトなのだ。さらにその上で、まるで実写の舞台装置のように「これは同じシーンだから、同じものを写している」という意識を背景美術に宿す。それが「レイアウト・システム」に期待された、真の役割だったのではないか。
「仮定の話」が多すぎるこの話は、まだまだ研究途上だ。しかし「仮説」ができたなら、検証の具体的手段はいくらでも思いつく。「高畑勲展」はその物証の宝庫に違いない。会期中は何度も足を運ぶことになるだろう。こうした「考え続ける題材」を遺していただいたことに感謝を捧げつつ、ぜひ多くの方にも展示物をご覧いただき、「高畑勲監督の新しい解釈」へ挑んでもらいたいと願っている(敬称略)。
氷川竜介の「アニメに歴史あり」
[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ) 1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。
イベント情報・チケット情報
- 高畑勲展―日本のアニメーションに遺したもの Takahata Isao: A Legend in Japanese Animation
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- 開催日
- 2019年7月2日(火)
- 場所
- 東京国立近代美術館(東京都)
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