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特集・コラム 2024年12月28日(土)19:00

【氷川竜介の「アニメに歴史あり」】第55回 重厚で心に沁みる希有なファンタジー映画

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心に特別な作用を及ぼすことで観客の人生そのものを変えうる「作品」より、「IP」がいかに効率的に金銭を生むかが優先的に語られるようになった近年――その傾向に疑念を抱く一方、そんな世の中ゆえに、奇跡的なコラボレーションも実現可能となる。そんな感慨を覚えたのが、神山健治監督による映画「ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い」である。
 「実績のある実写映画IPのフランチャイズをアニメ化して国際的に運用する」という先行事例は多数あるが、その範疇を超えて人の心を活性化し、未来につながる大きな可能性を切り拓いたと思えた。
 最大のみどころは、随所に散りばめられた「越境と融合」である。リアルとファンタジー、実写とアニメ、3Dと2Dなど、本来なら映画内にコンフリクトをもたらす諸要素を積極的に取りこみ、卓越した采配で片方だけではなし得ない状態へ持っていく。背後には、言語や国民性の差違をものともせず、むしろ衝突さえも武器にして目標に挑むスタッフたちの情熱も見える。「中つ国」の過去作で描かれた「ひとつの世界」への帰属と「始まりと終わりのあるひとつの映画」――これも矛盾のはずだが、両立されている。すべては相似形を描きつつ、コンフリクトのある命題を乗りこえ、ひとつの目標に収斂している。そこにある種の「美学」も感じとれる。
 たとえば冒頭提示される非現実世界の平面的な地図だ。そこでは平面だった要所が立体化していくのだが、デザイン化された3Dで決してフォトリアルな建造物にはならない。この立体のバランス感は、この映画がこれから見せる映像姿勢の宣言である。本来なら2Dに属するアニメの絵で描かれるが、活躍の場は疑似的な立体空間として理解し、生きた人間として共感してください、という「宣言文」として機能し、観客のいる現実空間から抽象度の高いアニメ空間へと誘っている。
 原作はハイファンタジーのバイブル的存在となったJ・R・R・トールキンの小説「指輪物語」の「補遺編」として収録された短い物語である。同作の本編は魅力的な異世界設定を入念に散りばめ、「中つ国」という完全異世界を完成させた。エルフ、ゴブリン、ドワーフなど標準的なファンタジー設定の大半は同作をルーツとしている。
 とは言え、「ローハンの戦い」はあくまでも「人間と人間の衝突」の物語としている。ローハン国のヘルム王とその王女ヘラを中心に据え置き、彼らに激しい感情を抱き、戦いを挑んでくるウルフとの「愛憎劇」を軸に進んでいく。大枠は日本で言えば戦国時代の覇権争いにも近く、黒澤明的だとも感じた。その点で、世界中のどの国にもありそうな極めて普遍的な争いの神話として受け入れられる可能性が高い。
 物語をドライブするのが、主人公ヘラとウルフ、幼なじみでありながら敵同士となる男女という点も、共感を得やすい構造だ。何とかうまく収まらないものかと観客が淡い期待を抱きながらも、やむにやまれる葛藤と立場のすれ違いで、どうしようもないところに追い込まれていってしまう。他にも人が人である限り、共感や反発など「心の動き」を覚えるであろう部分が多々あり、オーソドックスでいてパワフルな作劇である。
 それは「魔法で解決」などの手法を封じ、徹底して現実味あふれるストイックかつ重厚な語り口の姿勢がもたらしたものだ。ところがそれゆえ生じる現実味と、日本的なアニメそのもののルックにもコンフリクトがある。アニメそれ自体が非現実的なファンタジーだからだ。その「越境と融合」の具体的方策は、分析のしがいがあるとも思った。
 とは言え、何よりも価値が高いのは、誰が観ても楽しめるエンターテインメント映画としての体験性である。2時間あまりの鑑賞後、ズシリと確かな手ごたえが残り、映画が終わっても多くの「おみやげ」――あのときどうすれば良かったのか、なぜこんなことになったのか、この先どうなるのかなど、想像力のタネが残る。劇場でしか得られない「映画体験」もまた、この時代、貴重なはずだ。
 筆者が特に興味を覚えた点も語っておく。それは、長年考えてきた「アニメの特性」が有意に作動し、しかも新しい地平、可能性を見せてくれた。
 アニメはある存在を「分解・理解・再構築」の3プロセスで映像に結晶化する。「鋼の錬金術師」で語られた「錬金術のプロセス」と同じである。「誇張と省略」によって現実を再定義することから得られた特性で、これは「アニメーションを応用した作劇」に、実写では不可能な特別性をもたらす。画面に登場する森羅万象をコントロールする作者、その取捨選択の手つきに、固有性が宿るからだ。そうやって再構築された自然界や感興、日常生活は観客の心を触発する。観客もまた、得られた情報で自分の心を再定義するからだ。送り手・受け手の共犯関係であぶり出された本質は、観客の「ものの見方」を更新し、時に心の閉塞を打ち破る。
 「ローハンの戦い」の場合、その「分解・理解・再構築」のプロセスは先行する映像世界に向けられた。ピーター・ジャクソン監督をWETAによる映画「ロード・オブ・ザ・リング」3部作(2001~03)と「ホビット」3部作(12~14)で確立した「中つ国」の世界観の継承が、「ローハンの戦い」の大きな命題だったのだ。神山健治監督は映像的な世界観やルールを過去作から抽出しつつ、さらにニュージーランドのWETAにも出向いて疑問を解消し、細部を詰めたという。
 そうした取材記事を読むと、急所はやはり「ファンタジー」にあると思える。特に近年のアニメ作品に多いジャンルだが、えてして作者・登場人物・観客が結託し、欲望、願望を達成するための便利な手段として使われがちである。娯楽性を優先するなら当然のことではあるのだが、ファンタジー的手段を恣意的に運用すればするほどリアリティは後退し、「なるほど、それでこういう心情になるのか」という類の共感率は遠ざかる傾向がある。特に「アニメを見慣れていない一般観客」では拒絶に至る確率も高い。
 だから「ローハンの戦い」のワールドワイド展開の写真が先行して届くたび、正直言って不安もあった。それはどうやら杞憂に終わってくれそうだ。
 おそらく神山監督は今回、ファンタジーに向かいあう姿勢それ自体を「分解・理解・再構築」したのであろう。そもそもトールキンのファンタジーに対する姿勢とはどういうものだったのか、なぜ長期にわたって古典的人気を獲得したのか、そもそもなぜ人類はファンタジーを求めるのか。ファンタジーにした場合の利害得失はどこにあるのか……。
 空想力の根源まで遡って再構築する。そんな苦難の道を選んだとしか思えない仕上がりなのである。
 そのように考えてみたとき、かつて21世紀初頭に神山監督が「攻殻機動隊 SAC」シリーズを成功に導いた経験を活かした発展形ではないかと思えてきた。往時のチャレンジは「士郎正宗の原作漫画とも押井守の劇場アニメ版とも異なる独自性を確保しつつ、なおかつトータルな攻殻世界の共通性を実現する」と翻訳できる。「ローハンの戦い」との近似性が見えてくるのである。その翻案能力もまた、ひとつのオリジナリティ、創造性と認識すべきではないか。
 「オリジナル」「原作もの」と2種に分断されているのではなく、中間には「セミオリジナル」のグラデーション、濃淡のある境界領域が存在する。「ローハンの戦い」は、単純にグラデーションのどこかにマッピングされるほど単純な作品ではなく「限りなくオリジナルに近く、限りなく原作に近づいたもの」という特異点ではないだろうか。
 矛盾する要素を越境し融合した、そんな新規性を備えつつ、地に足のついた重厚なアニメ映画体験、ファンタジー世界でなければ不可能な心の共鳴を、ぜひ劇場で味わってほしい。

氷川 竜介

氷川竜介の「アニメに歴史あり」

[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ)
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。

作品情報

ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い

ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い 1

偉大な王ヘルムに護られ、騎士の国ローハンの人々は平和に暮らしていた。だが、突然の攻撃を受け、美しい国が崩壊していく…。王国滅亡の危機に立ち向かう、ヘルム王の娘である若き王女へラ。最大の敵となるの...

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