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特集・コラム 2020年3月30日(月)19:00

【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第26回 少女漫画の主観的表現と「エースをねらえ!」

(C)山本鈴美香/集英社・TMS

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日本アニメ史上、とても重要な作品が、「エースをねらえ! COMPLETE DVD BOOK」(ぴあ)として5月27日に廉価で発売される。パートワーク形式によるDVDつき書籍(全26話、3巻構成)で、「vol.1」には9話まで収録予定だ。「あしたのジョー(2作目含む)」から始まり、「ガンバの冒険」「宝島」「スペースコブラ」と続いてきた「出崎統監督のテレビシリーズ」という系譜の中でも、特筆すべき快挙である。リリース済みの作品は1枚に10話前後収録と高圧縮のわりに、エンコード技術の進歩とリマスターによって高画質で評判もいい。出﨑アニメの時代を超えた普遍的な価値を示す名作に、1000円台で触れられるチャンスはありがたい。
 ではなぜこのテレビ版「エースをねらえ!」(1973)が、歴史的に特別な位置を占めるタイトルと言えるのだろうか。出崎統監督は初監督作品の「あしたのジョー」(70)から、過去の常識を超えた独特の演出技法を示し、「漫画を動かす」というよりは「絵を使った映像で映画的にする」ということを極めていった。当コラムでも触れた「劇場版 エースをねらえ!」(79)においてその「映像文法」は完成の域に達し(https://anime.eiga.com/news/column/hikawa_rekishi/109593/ )、応用編の「あしたのジョー2」(80)が「光と影、空気感」を重視した映像表現で、デジタル時代の現代アニメにつながるスタンダードを確立する。
 それゆえ「出崎統監督は10年かけて映像技法を熟成させた」と認識している。そして、その過程の中でもっとも大きな進化は、この「エースをねらえ!」で起きたのではないかとも考えている。特に出﨑アニメ文法の中核を占める「主観的カメラワーク」「時間の反復」「止め絵や余白の重視」「光そのものをとらえる」といった要素に的を絞ると、「ジョー」の進化形の本作が、集大成にして新しい原点であることが分かる。そこに「少女漫画的感性」というロマンが介在していることも、とりわけ重要である。
 制作年が1973年というタイミングが、そうした発展の契機をもたらしたのだった。1970年代に入り、カラーテレビ受像機は急速に普及率を高めた。72年4月から全テレビアニメがカラー化し、より微細で繊細な表現が可能となって、視聴者もその進化を楽しむようになっていた。60年代末から導入され、動画の鉛筆線の強弱やカスレを忠実にセル板へとカーボン熱転写するトレスマシンが普及したことも重なり、「線と色の妙味」で表現の先端を更新する作品が急増するピーク期に、「エースをねらえ!」は作られている。
 すでに「あしたのジョー」では拳で殴り合うボクシングという闘争的な作品性に合わせ、新しい映像表現が実験的に投入されていた。「線と色の妙味」をハードなパンチのスピード感や重み、あるいはダメージを受けたときの血の表現、痛みや幻惑感のアブノーマル色指定などに応用し、ドラスティックな表現を次々と試行していたのだった。
 それに対し、「エースをねらえ!」は何が違うのだろうか。それは胸に抱いた少女の「ときめき」という「心」を、華麗な色彩に包まれた背景とセルワークでロマンチックにビジュアライズした点である。出崎統監督によるエッジの効いたカッティングで次々に出現する映像は、すべて「心」を反映したものなのだ。アウトフォーカス的な余白を活かしつつ、パステルカラーの大胆な色面で描かれた風景が見つめる者の感情を語り、モノローグはポエムのような言霊を宿す。流れるようなカメラワークと多重露光は、見つめる者の気持ちとその向かう先を示し、込められたキャラの情熱が観客と共有されるに至る。
 それは山本鈴美香の原作をふくめた少女漫画全体が、主観的イメージを紙に焼きつけ、新しい表現を極める時期となっていたから、可能になったことだった。光や花をスタイリッシュに散りばめ、別の空間にある人物の表情を等価において説明的なコマ割りを逸脱し、独白を添えて全体を詩的なものに高めている。
 出崎統監督のインタビューを参照すると、まず原作を渡された時点で監督には少女漫画を読んだ経験がなかったという。そしてその少年漫画とまったく異なる感覚的なコマ割りに興味を惹かれ、「省略と飛躍」を活かしながら第1話に挑んでいった。それは「新しい映画の感覚」を覚えたからだというのだ。この話は「劇場版 エースをねらえ!」へ出崎統監督が寄稿した文章にもつながっている。それはアニメーションである前に「映画でありたい」という決意を表明したものだった。ディズニー的な自然主義の「動き」中心で見せることを否定し、自分たちの方法論で「映画としてありたい」としたものだ。
 結果的に「劇場版」と翌年の「あしたのジョー2」が「出崎統的映画志向」を多くのクリエイターに伝えることになった。「リミテッドアニメ技法でも映画にできる」という実証を得たことで、「絵を使って映画にしたい」という不文律的な志向を拡散させていったのではないかと、筆者は考えている。
 その原点がテレビ版「エース」の第1話なのだ。その傍証として、出崎統監督はこの回を作画枚数1600枚程度でつくり、それは3000枚使うよりも困難だったと語っている。理由は、絵の密度にある。少女漫画風に大きく描かれた目を映像的にキラキラと見せるため、長く伸びたマツゲにタッチをつけ、マブタのカゲを落としたり、クロス光をブラシで入れて、瞳の中に宿るハイライトや虹彩を細かく描くなど、ディテールを増やしたこともその「濃密化」の好例だ。結果的に杉野昭夫や川尻善昭たち「濃くする要求」に応えられるアニメーターだけを中心とせざるを得なくなり、数倍の時間を要してしまった。結果として、第2話以後はもう少し通常の作り方へ歩み寄ることになったともいう。
 出崎統監督がこうした挑戦をするに至った動機としては、もうひとつ思い当たる作品があるのだが、長くなったので次回また稿を改めて分析することにしたい(敬称略)。

【参考文献】
「エースをねらえ! DVD-BOX(2)」解説書(2001年8月25日/バンダイビジュアル)
「季刊ファントーシュ Vol.5 1976年10月1日発行/グループ・ピピ)

氷川 竜介

氷川竜介の「アニメに歴史あり」

[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ)
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。

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