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特集・コラム 2023年7月20日(木)19:00

【氷川竜介の「アニメに歴史あり」】第46回 “残る映画”ってなんだろう?「シン・仮面ライダー」配信開始に寄せて

(C)石森プロ・東映/2023「シン・仮面ライダー」製作委員会

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庵野秀明監督の映画「シン・仮面ライダー」が、Amazon Prime Videoにて7月21日から配信される。3月18日に公開開始、6月4日に主な劇場での上映を終了したばかりであるものの、配信ならではの価値が付加されるのでは、と期待している。
 もちろん劇場映画だから、映画館の鑑賞が基本である。映像や音響も、暗闇の中で光と音に集中することを前提に作られている。しかしながら本作の場合、1971年のテレビシリーズが原点であり、怪人単位でエピソードを積んでいる構造があるから、分割視聴も可能となっている(実際にクモオーグ編を切り出してテレビ放送、先行配信もされた)。
 落ち着いた家庭内の視聴環境も、優位に作動するかもしれない。子ども番組として曖昧だった設定情報に言葉の厚みをつけてある一方、感情面での描写は抑制気味になっているため、初見ではするっと見逃しそうな部分が多々ある映画なのだ。たとえば冷徹に見せている緑川ルリ子が最初期に目を泳がせるカットがあったり、本郷猛が最終的な決意をする直前に身体を震わせ続けていたり、心理面は非言語的な伝達が多い。
 気になったところを再確認することが容易になったり、前とは違う角度で見直すことも可能な配信には、有利な点が多々生まれるのではないか。自分自身、「繰りかえしの鑑賞」によって、この映画に救われたと思ったから、余計にそう願ってしまう。

ゴールデンウィーク期間中の5月頭、筆者は人生観に影響を受ける体験をした(詳細は省く)。それが落ち着いた連休明け、「EVANGELION:3.0(-46h)劇場版」を追加併映とする「シン・仮面ライダー」を見に行った。元来「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のパッケージ用特典映像で、スクリーンでも見なくてはという動機だったが、結果的には映画「シン・仮面ライダー」のタイミング良い再見が非常に有意義であった。
 パンフレット仕事を通じ、未完成のラッシュなど含めて数多く鑑賞済みだった作品である。しかし完成後も見直すことで、ストーリーラインは同じなのに、意味が違って感じられる箇所が随所にあって驚かされた。心の違う部分に新鮮な刺激が作用する。そして映画そのものも違って見えてくる点で、なかなか希有な映画体験が生じる。
 この時は併映の「エヴァ」が作用したかもしれない。世界が滅亡に瀕する中、ひとり生き延びた北上ミドリが苦闘する様を描く短編で、体験性が向上した結果、死生観の揺らぎが増幅された。それに続く「シン・仮面ライダー」は本来無関係だが、気分や生理は短時間で刷新できない。こうした一期一会的な映画体験は、公的な評価とはまた別であって、とても貴重なものだと考えている。
 サブスクリプションによる映像配信になれば、いつでも何度でも好きなだけリピートが可能である。となると「作品と観客の関係性」において、また新たなチャンスが生まれるかもしれない。「今日こんなことがあったから、もう一度見てみよう」みたいな行為さえできるなら、それに向いた映画が「シン・仮面ライダー」なのである。

それでは、自分の心のどこに何が残ったのか、もう少し展開しよう。
 初号を兼ねた完成披露試写会のときから、「これはリレーのようにバトンを渡す映画だな」と感じていた。バトンのシンボルの代表が、赤いマフラーである。
 本作ではショッカーの設定が「悪の秘密組織」から大幅に改訂された。「絶望と幸福」の対置が物語を貫き、「辛」と「幸」の文字が多面的に対照されている。自分を取りまく状況や降りかかった事件を、そのどちらに位置づけるのか。乗りこえ方の選択は、何を基準にどう行動するのか。特に自分が孤独であるのか否か、認識力がカギだと思った。仮に孤独が絶望だとして、否定することで先へ進むのか、受け入れて乗りこえるのかでは、大きく結果が違うように描かれている。
 これもまた「世界観の問題」だなと思った。主人公・本郷猛は世界の変革が不可能であると知り、自分の変化、世界との関係性の変化を選択し、最後の行動に出向く。すっかり流行らなくなった言葉で語るならば、これは「克己(こっき)」である。
 だとすると「克己のバトン」をどう渡すかが描かれているのではないか。そんな思索が映画が終わった後も続くことが貴重なのである。多くの登場人物が、「自分は孤独だ」「分かってもらえない」と煩悶し、内閉するタイプとして登場する。緑川博士、ルリ子、本郷猛、一文字隼人。表出に違いがあっても、根に共通性がある。オーグメント側も世になじめないタイプが主流であり、AIはそれを「絶望」として定義したようだ。
 ところがハチオーグのヒロミとルリ子の愛憎関係に代表されるように、オーグメントの抱える「絶望」とは一面的な定義にすぎなかった。人工知能端末のケイはその多面性を観測し、意外性を「面白い」と学習していく。
 主人公サイドに顕著だが、多くの絶望は「孤独からの解放」で解消されている。託す人ができた、分かってもらえる人が見つかった、真意が伝わった……。その解放感と同時に、孤独の主格は「泡」となってこの世から消え、映画から退場する。そこに「バトンリレー」のイメージが見えるのだ。
 特筆すべきは、退場する者の誰も絶叫しないことである。オリジナルの「仮面ライダーシリーズ」では、途中から怪人たちが爆発して退場するパターンができるが、火薬の炎も絶叫に近い。そんな人間の生理を直撃するカタルシスよりも、「泡による静かな退場」が通底されているため、動物的解決より人間的な解決に思考が向くのかもしれない。
 一文字隼人だけが「本郷!」と絶叫し、映画は終幕へ向かう。彼もまた本郷猛との戦いを通じ、孤独から解放されたはずなのに。しかし、彼はリレーのアンカーである。だから、ただひとり絶叫を許されたのではないか。かつてそう考えて鑑賞した結果、一文字と本郷がともに走り続けるというラストシーンの意味が、また違って見え始めた。
 諸事情で今まで以上に「残り時間」を意識せざるを得なくなった自分にとり、この「継承」のイメージは大きい。「もうすこしみんなと走ってみなよ」と言われた締めくくりには、感謝さえ覚えた。
 映画の客観的な評価とはまた別に、こうした個人的な鑑賞の価値は確実に存在する。であれば、配信の鑑賞は「個」に分離された状態で無制限に可能となるがゆえに、大変貴重だと言える。映画をループするごとに思考、思索の細部が変化する映画は、「残る映画」なのである。その日、その時の自分の考えていることや成長度合いに応じ、映画と自分の対話が変わる。1年、2年、5年、10年と時間が経過するにつれて、この対話も熟成する可能性が高いのだ。

少し蛇足を続ける。実は自分のSNS(Facebook)周辺では、世間とは隔絶した「シン・仮面ライダー」ブームが起きていた。
 劇場に日参して連続鑑賞回数を記録し、10回、20回は当たり前、中には30回、60回というリピーターが複数出てきたのだ。業界関係者も含まれるが、映像や芸術リテラシーの高い人、クリエイションやアートで何かを乗りこえた人に、言外の意味が強烈に刺さっているように思えて、過去なかった現象なので興味深く推移を追った。
 「シン」を冠した4作品の中で本作だけに、何らかの特別性が宿ったのかもしれない。ゴジラ、ウルトラマン、エヴァが「巨大なもの」の「大状況」を描いてきたのに対し、等身大の仮面ライダーはあくまでも「個の物語」である。その差違が、予想以上に強く出た結果なのだろうか。
 ネット時代の「劇場映画」は鑑賞も感想も、大きな同調圧力にさらされ続けて、かなりの時間が過ぎた。考えを熟成させず、議論も深めず、反射的な……動物的とも言える結論を急ぐ傾向さえ時に感じる。自分も興行収入のサイズで映画を語ることも多々あるから、その傾向に手を貸してきたかもしれず、反省もある。
 しかし「何十億円」という数字は「水圧」のようなものだ。その水圧も千円規模の木戸銭の集積が生むものであり、「水一滴」はあくまでも「作品と個々人」の体験性に根ざしている。それが忘れられたような「コンテンツ」「IP」という呼称に対し、昨今の筆者は危機感を覚えている。
 配信の収益は公表されることが少ないため、本作の受容も不透明な時期が続くかもしれない。しかし「残る映画」と認識した個々人は、確実に増加する。
 もう少し「なぜ残ったのか」を、そこ個々人が折にふれて考え続けてほしい。できることなら、時間がたっぷり経ってからも、思い出してほしい。こうしたリレーバトン的な継承をともなう「水一滴」の集積は、いつか大きな水圧となることを確信しているからである。

氷川 竜介

氷川竜介の「アニメに歴史あり」

[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ)
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。

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