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特集・コラム 2019年3月31日(日)19:00

【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第14回 サントラ盤に抱いた渇望感

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SNS上で「オリジナルサウンドトラックとオリジナルスコアの違い」について質問を受けた。映画「スパイダーマン:スパイダーバース」の劇中音楽を入手しようとしたらアルバムが2種類出ていて、区別がつかないという。結論を先に言えば、前者は「歌曲中心」で後者は「劇伴」とも呼ばれる劇中のインスト曲である。その質疑が出て、意外にこうした音楽の基礎を説明したものが見当たらないことに気づいた。
 そこで今回と次回は、1970年代末から「機動戦士ガンダム」第1作を含めてアニメ音盤の数多く関わった立場から、歴史的経緯をからめて「用語によって何がどう違うのか」ということを根源から解説してみたいと思う。
 まず「劇伴(げきばん)」という呼称がある。必ずしも「映画音楽」とイコールではない点が複雑だが、かつては「BGM」とも呼ばれたように、劇中でかかるインスト曲の総称だと思っていただきたい。決して一般的ではない言葉で、「劇版」と誤記されることも多い。ただ、テレビ朝日の長寿番組「題名のない音楽会」では4月20日に「劇伴音楽の魅力を知る休日」が放送されるというから、改めて注目が集まりつつある言葉なのかもしれない。
 この語源は「劇の伴奏」で、「舞台劇」から映画へと継承された言葉である。大劇場では舞台の手前に低くなったBOX部分があり、そこにオーケストラが配置され、感情変化や緊迫感を盛りあげるための生演奏を行うことがある。そして映画はサイレントで出発したが、必ずしも静まりかえった無音で上映されていたわけではない。劇映画が成立した後は、フィルムに合わせて「弁士」がセリフや解説を入れ、「楽士」が音楽をつけていたのだ。それぐらい「劇と音楽」とは不可分なものである。演奏は時にバイオリン1本の場合もあり、レコードで代用される場合もあった。ドタバタなら「天国と地獄」など曲目の定番が決まっていて、内容と密接な関係はないことも多かった。
 「画と音」の関係が深まるのは、1920年代後半、映画が「トーキーの時代」に突入してからだ。「音の表現」を得た映画芸術は、ミュージカルなど劇中で歌の流れる作品を続々と生みだした。「歌って踊れる役者」でないと廃業に追い込まれるケースもあるほどだった。やがて映画の内容に寄りそった主題歌やテーマ音楽が誕生し、セリフや効果音とともに映画を彩って劇的効果を高めていく。そして映画専門の作曲家も生まれ、どういう音楽が良いか、そのためにはどんな楽器が適しているか、研鑽が続いていく。
 やがて「レコード芸術」が台頭すると、「劇伴」という「寄りそってこそ意味がある」はずだった音楽は、映画を離れた独立性をもつ商品として成立するようになる。「映画音楽」「スクリーン・ミュージック」はそうした価値観をもつ包括的な呼称で、「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」、あるいは「第三の男」など古典的な映画音楽は「スタンダード・ナンバー」になった。
 ただしレコードは再演奏であるケースが大半だった。必ずしも「映画鑑賞中に聞いた音楽そのもの」ではない。映画の音声トラックは、90年代になってデジタル化されるまで音の振幅をフィルムに焼きつけた光学式が主流だった。それだとAMラジオやアナログ電話のように帯域が狭く、音質は決して良くない。またオリジナル音源も、入手が容易ではなかった。耳なじみの良さを考慮したアレンジの妙のある「カバー曲」が多くなるのは必然だった。
 これに対して「サウンドトラック盤(通称サントラ盤)」という呼称がある。「オリジナルサウンドトラック」と言えば、「ホンモノ感」つまり忠実性が強調される。「サウンドトラック」は本来フィルム上の音声トラックの音源を意味するが、ファンにとってはその「劇場で聞いたまま」ということが問題で、そこには渇望感があった。ところが安心はできない。セリフ・効果音と音楽がミックスされた、まさに本編の音そのものを意味していることもあったからだ。渇望があるのは、ミックスされる前のピュアな音源――つまり「劇伴」なのだ。それゆえアナログ時代はレコード店にあった「試聴コーナー」で確かめたほどだった。
 アニメや特撮の世界で「オリジナル劇伴」がレコードとして聴けるようになったのは、1970年代後半になってからで、かなり遅い。「子ども向けのレコードなら歌」という固定観念の壁が厚かったのだ。「映画のために作られた音楽」を「独立した音楽」として商品化するのはどうか、という異論もあった。たとえば映画「ゴジラ」(54)の作曲家・伊福部昭の場合、フィルム上でセリフや破壊音、爆発音が加わることを想定し、それと重ならない帯域で作曲しているため、音楽だけ抜き出すことに抵抗もあったという。
 音楽だけ独立することに対する抵抗は、特にハリウッド映画の場合で顕著だが、映画音楽の付け方の基本が「フィルムスコアリング手法」にあるということも、大きな理由だった。それは特に、黎明期のトーキーアニメーション映画では顕著である。
 現場用語では、「ミッキーマウシング」という言葉があるという。音楽のすべてをキャラクターの「当て振り」で表現し、シーン、カット、あるいは動きの変化に完全同期させてしまう手法である。驚くとシンバルが鳴り、ジャンプしたり落下したりするときには音程が高低する特殊な笛を鳴らすなど、効果音の領域まで音楽で表現したりする。「子ども向け」を意識したこの種の音楽は、映像ありきで完成するものだ。音楽だけだと「なぜここで転調?」「なぜここでシンバル?」など、わけが分からなくなるのである。
 そもそもなぜ「スコアリング」と呼ばれているのか? 「スコア」には「楽譜」という意味もあるが、「小節で区切ったもの」という上位の概念があるからだ。つまり、アニメーションの作画上、動きを時間軸に振り分ける伝票の「タイムシート」と同じ役割を果たすものなのだ。だからこそ「アニメーション映像と音楽は完全同期可能」であり、そこに実写を超える価値が宿る。事前に録音した音楽・音声をコマ単位で分析する作業は「プレスコ=プレスコアリング」と呼ばれ、音の素片を分析するスポッティングと呼ばれる技法でタイムシートを先行して作るものである。現在のテレビ作品でもオープニングやライブシーンで行われることがある。そのタイミングにしたがって作画することで、身ぶりやクチの開閉に合わせて同期が完成し、「アニメキャラが歌って踊る」という奇跡が信じられるものに変わるのである。
 このトーキー式アニメーションに人びとは驚き、拍手喝采した。そしてアニメにも大人気スターが続々と誕生し、それがキャラクタービジネスの基礎となった。実は音楽と映像の同期は、そこに大きな役割を果たしていた。この「歌と動きの同期」という伝統は、アメリカ製アニメーション文化ではCG時代の現在も続いていて、「アナと雪の女王」(13)のヒットも主題歌「レット・イット・ゴー」のPVを先行して完全公開したことによるものであった。
 ところが日本のアニメ音楽の場合、必ずしも同期重視ではない。それがまた日本のアニメ文化に独自性と特殊な発展をもたらすのである。それについては次回、また改めて説明しよう。

氷川 竜介

氷川竜介の「アニメに歴史あり」

[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ)
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。

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