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特集・コラム 2022年12月16日(金)19:00

【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第43回 追悼:偉大なる先輩、池田憲章さん

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池田憲章さんが亡くなった。その訃報は12月10日、日本SF作家クラブからアナウンスされた。「かねてから入院加療中であった池田憲章会員が、去る10月17日、お亡くなりになりました。享年67歳。心よりご冥福をお祈りいたします」(メールからの引用)。訃報のタイミングがズレているのはご遺族が49日を待って連絡されたためである。
 氷川は同人「怪獸倶楽部」の後輩でもあるし、単行本「アニメ大好き! ヤマトからガンダムへ 池田憲章/編」(1982年11月1日発行/徳間書店)と共著もある。「宇宙戦艦ヤマト」関連のパートは氷川が中谷達也名義で執筆したが、当時まだ珍しかった評論本として、いまでも時々話題に出ることがあって、大事な財産のひとつである。
 訃報が届いたとき、あらためてその若さと、失われてしまった知識の宝庫に愕然とした。いったん話し出すと止まらない機関銃トーク、人間データベースのごときエネルギッシュな語り口は、もう聞けないのか。ギッシリと脳内に詰めこんだ情報が連鎖反応を起こし、この話とこの話はこう繋がっていると、アクロバットのようなジャンプが快感だった。湯水のようにわき出てくる言葉の連打は、とてもマネできるものではなかった。
 だいぶ前から車椅子でイベント出演されていたし、入院されているとの情報もあったので、予感はあったが、いざ現実となると激しい動揺に見舞われる。池田さんの功績は追っていろんな方が語られると思うので、今回はその動揺の理由に絞って書くことにする。
 われわれは日常、太陽からさまざまなエネルギーを受けている。その太陽の喪失に等しい出来事なのである。池田憲章さんという太陽が、1970年代前半から(子ども向けと見下されて)まだまだ痩せていた大地を照らした結果、特撮やアニメに前例のない価値が生まれた。自分はそう認識している。

池田さんの熱い言葉は伝染力がある。人の心を鼓舞し、活性化するパワーにみなぎっている。高校生だった自分もおおいに触発され、及ばずながらも文章を書くことをスタートした。時に直接笑われたりもしながら、池田さんに認められる日がいつか来るといいなと思い続けた。実際に褒めてもらったのは1回か2回だけど、それで充分だ。
 こうしていろんな人から発見された価値が積み重なり、編み目のように結び合わされ、やがて層をなしていく時代があった。大地も豊かとなって、新たな作品が芽吹く。毎シーズン、芳醇な作物が収穫できるようになった現在、その大地や畑は誰かの努力で成立したことも、忘れられているだろう。しかし「ものづくり」である以上、価値創出と価値の伝搬があってこそであり、その認識が欠落すれば大地は循環するエネルギーも減衰し、また痩せていくはずなのだ。
 大地の安定へと向かう過程では、特に「言葉にする」ことが重要だった。なぜならばひとくちに「共感」と言っても、本当に共有できているかは実に怪しい。ロジックによる言語でロックしなければ、共感はエネルギーに転換できない。SNSの短い言葉では、エネルギーに高めることに困難がある。いったん圧縮し、コンテクストに伸張していく目的で、論理に支えられた長文が必要とされる。池田憲章さんのあの熱い語り口の文章が果たした役割は、そうした原理のものだ。初期段階でドライブをかけた点で、池田エネルギーの影響力は計り知れないものがあった。
 池田憲章さんの作品紹介文は、しばしば「実際の作品よりも面白い」と、よく言われた。いまの世相からすると、それを暑苦しいと思ったり、盛りすぎだと拒絶感をいだいたりするかもしれない。
 だが氷川は思い出すのだ。その熱気が必須だった時代を。
 70年代中盤までは、特撮もアニメも子ども向けと見下され、SFでさえも大人の理解者は乏しく、「(絵空事の総称としての)まんがは早く卒業して、大人になって実務をして世に尽くせ」という抑圧が強かった。
 でもその「まんが」が大事なんだ。だから、誰かがなんとかしないと、消えてしまう。多くの人が抱いたその危機感の中にあるネガティブさを、「世間は分かっていない」などと繰り言にせず、逆に積極的行動へと転換して「熱量」に変えたのが池田憲章さんだった。その結果だから、熱い。性格だけではないのである。開拓が一段落して周囲も冷静になり、特にアニメは量的に飽和して誰も全部を消化できない状態となって久しい。仮に消化できても、言語化する余力や時間を失ってしまった現在では、熱量が分散してしまっているのではないだろうか。
 作品のあたえてくれた感動も、その感動をもたらした人たちも、込めた思いでさえも、実に移ろいやすく、容易に霧散する。いま人気とされている作品群も、後に価値観が根底から異なった時代を迎えたとき、どれくらいのタイトルが「古典」として残れるのだろうか。パッケージ化によって、作品そのものが残っていくことは心配していないのだが、「熱い想い」とセットになった言葉の希薄化、SNSにあふれる「冷笑的な言葉」の「冷たさ」に遭遇するたび、氷川は「滅びの予兆」をチラリと感じる。杞憂であってほしい。

個人的な思い出話も付記しておく。
 初めて池田憲章さんとお会いしたのは74年、休日の円谷プロダクションで竹内博さんが主宰していた「怪獸倶楽部」の会合だった。豪放磊落、よく響く声で話しかけてこられ、人なつこい笑顔にあふれ、まぶしかった。「太陽」の連想は、どうもこれが原因らしい。自分とまったく正反対のキャラクターが第一印象だった。そして手渡されたのが「甦れ!円谷プロ」と題された評論本である。ガリ版の手作り製本で、同人誌というより個人誌、無償でメンバーに配布していた。伝えたいメッセージがあれば、まず自分で動いて形にし、啓蒙普及する。その行動力に感動し、内容がクールで専門的なタイプの評論ではなく、熱量に満ちた「檄文」なので、また驚いた。
 この影響で、筆者も翌年1月、手作りのガリ版刷りで「ゴジラの頃」(第2回SFショーにおける座談会採録)と初の同人誌を制作し、それを会合で配った。コピーキャットである。こうした「行動の触発」が池田さんの本領なのだ。仮に自分にキャリアがあるとしたら、その出発点は池田憲章さんということになる。池田パワーの本質は、「みんなでやっていこう!」という類の「呼びかけ」にあったのだと、改めて思う。
 その時期の呼びかけで最大のものは、「みなさんもメモをとりながら作品を観ていきましょう」と言われたことだ。その結果、高校2年から3年にかけて、アニメも特撮も必ず観たものはノートに記録していた。サブタイトル、脚本、作画監督、演出などなど。ロボットアニメなら必殺技のコール、その性能、あるいは怪獣ロボの出現場所などもメモした。感動した回だと、ストーリーまるごとを記憶で回想して書く。ビデオがない時代だから一発勝負、ものすごい集中力が要求された。
 池田さんの導いてくれたとおりで、ぼーっと流して観てたときと、まるで結果が異なった。没入感も違うし、仕組みみたいなものも分かってくる。これを日常的に訓練することで、分解能(解像度じゃないよ)が違ってくるし、日々成長を実感するのも楽しかった。これが現在、氷川の基礎体力になっているのは間違いない。あらためて池田さんに感謝である。何度か「氷川さんみたいに作品を観れるのが羨ましい」みたいな話をされた昨今だが、池田流の集中度で観てみれば、それだけ発見が多くなるはずである。
 なかなかそうできない理由も知っている。自分も78年ごろからビデオデッキを導入したら、とたんにメモの習慣が無くなってしまったからだ。仕事で確認するときも、巻き戻せる安心感から切実さが減衰してしまった。不肖の後輩で申し訳ありません。
 一方の池田さんは次のステージに向かっていく。雑誌「アニメック」では「SFヒーロー列伝」と特撮作品の評論を連載し、雑誌「アニメージュ」では「池田憲章のいいシーン見つけた」を始める。自分自身でフィルムをコマ単位で検分しつつ複写することで、メモの時代よりも踏み込んだ作品紹介と分析をしていた。ムックも多く手がけ、圧倒的な筆致で作品の魅力を熱く掘り下げていく。積極的な取材も、話の引き出し方が圧巻だった。啓蒙と拡散の第二段階に入ったのだと思う。
 その後は自分が一時期アニメ業界から距離をおくことになり、「ロードス島戦記」を筆頭とするプロデューサーとしての活躍などは伝聞でしか知らないので、他の方に譲りたい。90年代後半からはトークなどでお見かけして、話し出すと止まらないさまは、変わらないな、頼もしいなと思うことも多かった。
 一方で、書き物を残すことは非常にレアになっていき、原稿を落とすことも多くなったので、そこは正直残念であった。2000年代には直接(愛するがゆえの)苦言を呈して、大喧嘩になったりもしたが、再会するといつもどおり。なかなか書かないのも、いつもどおり。そんな繰り返しが永遠に続くかと思ったのだが……。
 それにしても、何もアニメックの小牧雅伸さんと同じ年にいなくなることはないのになあと、単なるボヤキが出始めたから、この辺にしておく。現在は人間関係を重視しすぎるあまり、こうした「愛憎半ば」も伝わりにくいかもしれない。しかし、その矛盾してるかもしれない「機微」にこそ人生の妙味があることを、この機会に強調しておく。

自分が回想話をするときには「懐かしい」という言葉を避けている(時に漏れるけど)。その言葉は「現在を生きる若者」を拒絶するからだ。大学講義でも注力しているのは「若者が当たり前だと思っていることに疑いの目を向けさせること」である。「当たり前でなかった時代、当たり前に向けて第一歩を行動した人がいる」を伝えたい。
 それは「若いあなたにも、それは出来る。なぜならば、われわれも若かったんだ」という意味だ。「現状に満足せず。また新しい一歩を踏み出したい若者」はいつの世にも存在している。であれば、その背中を押したい。歩み出すエネルギーを与えたい。
 この発想自体、池田憲章さんたち先達から受け取ったものである。だからこそ次の代にも言葉を伝え、エネルギーを渡し、永遠の連鎖を成していく義務が、先人たちを見送っていった自分にはある。ましてやそのエネルギー源の最大級の存在・池田憲章さんがいなくなってしまったのなら、ささやかでも自分に可能な範囲で伝達を続けていきたい。それが今回の趣旨である。

氷川 竜介

氷川竜介の「アニメに歴史あり」

[筆者紹介]
氷川 竜介(ヒカワ リュウスケ)
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家。アニメ専門月刊誌創刊前年にデビューして41年。東京工業大学を卒業後、電機系メーカーで通信装置のエンジニアを経て文筆専業に。メディア芸術祭、毎日映画コンクールなどのアニメーション部門で審査委員を歴任。

作品情報

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